18トリソミーをめぐる医学の視点 〜臨床医の立場から〜
    国場英雄  小児科勤務医/大阪
   
[0]はじめに

トリソミーの治療方針について、一臨床家の立場から知りえたこと、考えたことにつき申し上げます。なお本稿は一般掲示板への書き込み(2002年4月13日)をもとに加筆したものです。内容をおおまかに次の6つに分けています。

[0]はじめに
[1]18トリソミー治療方針の教義
[2]現場の小児科医の悩み
[3]一人一人ことなる状態に対応すること
[4]小児医療の「忘れられた子どもたち」
[5]生活の中身という重要性
[6]おわりに
[1] 18トリソミーは絶対的予後不良で積極的治療の対象にならない」というのは、昔につくられた教義的なものの要素があること
   
医者が参考にする教科書には、18トリソミーは「積極的治療の対象にならないとされる」というような文脈で書かれるものがほとんどです。
それらの元となっているのが、権威とされる医学書の記述でした(通称「スミス」。
現在までに第5版が出ており、奇形症候群のバイブル的な存在です)。
出生後、生存に厳しい心臓の合併症がほぼ必発することと、成長や発達に相当な遅れがみられること、この2点をもって積極的な治療を行うことは無益だと考えられたのでしょう。
そこには第4版(1988年刊)まで次のように書かれていました。
「いったん診断がつけば、筆者は延命の医学的手段はすべて制限することを勧める」(*1)。
この教科書の記述が、いわば教義となって、いろいろなところに引用され、医療の中で支配的な観念になっていったのは否定できないと思います。
 ところが、この;常識;が、見直されるようになりました。
そのきっかけになったのが1994年にBatyらによって出された報告でした。
それまでは「長期生存は考えられない」「発達もみられない」とみなされていた18トリソミー(および13トリソミー)の患児にも、発達が少ないながらもみられることを示したのです。
アメリカの医学誌に掲載されたこの論文は、それまで本格的に調査されることがなかった18トリソミー児たちの成長や発達を主題とするものでした。その結論は印象的でした。一部を訳します。
 「……これらの家族とコンタクトをとるなかで明らかになったのは、自分たちの子どもが周囲や家族と交流するようなことは決してできないだろう、と早期に伝えられたことに対して憤りをおぼえた親が多かったということでした。
専門家の多くは18トリソミーや13トリソミーの診断は、生きても植物状態という希望のない見通しとみなし、あるいは生きることは不可能であるとみなします。
18トリソミーや13トリソミーの児と暮らしている家族の多くは、そういった情報を与えられて必要以上に落胆させられ、わが子の人間性を無視されたのだと考えています。
両親にとって重要なのは、子どもたちが成し遂げたことを医療の側から認めてもらうことなのです。
確かに、発達の幅は、比較的小さなものであり、とるにたらないものかもしれません。
しかし、一歳までにおこる数ヶ月の発達の違いというのは、家族にとっては大きな意味があるのです。・・・・」(*2)
 この報告を受けて、例の「スミス」も第5版(1997年刊)では、記述に変化が生じました。
訳します。「いったん診断がつけば、通常の範囲を超える医学的手段での延命は制限されることを真剣に検討すべきである。しかしながら、両親の個別の感情と、児の個々の環境を考慮しなければならない」(*3)。
 ここに至って記されるようになった「両親の気持ちや児の状況などを配慮しなければならない」という視点は、以前の版ではなかったことです。権威とされるテキストの記述が、昔のような一方的なものでない、ということは知っておいていいと思います。
      
[2] 近年、一部の小児科医の間では、18トリソミーの治療方針について従来の考え方をみなおすべきと考えられていること
   
現場の小児科医も悩んでいるのです。
小児科医中心で構成されているメーリングリストでも、つい昨年、「出生直後、臨床診断だけで18トリソミーと診断し、蘇生をしないということは許されるのだろうか」という疑問が投げかけられていました(2001年2月)(*4)。
ここで発言されていた複数の小児科医の意見では、一般的に言って(臨床診断だけで)「出生直後に何もしないというのは現実的に無理だろう」というものでした。染色体検査で確定診断した後でも(諸先生方ご自身の関わられた経験から)、「御両親との話し合いですすめていかなければならない」という意見でした。なまじ教義的に「18トリソミーだから治療はしない」という考えがある一方で、現場で行うべきこととの間に矛盾を感じ、悩まれた先生は少なからずいると思います。親子の間にできるきずなは、病名ひとつで消えるものではないし、ことは医学書どおり進むものではないからです。
 発言されなかった医師の意見はもちろんわかりません。しかし、先生方の次のような話には素直に共感できるものがありました。
 ・18トリソミー自体は治療できないが、合併している病気の治療は可能である。
 ・21トリソミー(ダウン症)も昔は短命だといわれていた。ダウン症の赤ちゃんに手術をするべきかどうかという議論が昔はあったが、今は積極的に手術が行われている。
 ・社会の常識も時代と共に変わっていく。変えるようにしなければならないのかもしれない。
   
[3] 患者さんの状態は一人一人ことなり、前もって方針を一つに固定しておくべきではないこと
   
臨床医としての私自身の反省を込めて申し上げます。赤ちゃん本人の状態がどうで、御家族が何を望まれているのかをふまえた上でなければ、治療方針の決定などできません。18トリソミーというフィルターで目を曇らせてしまえば、見えるものも見えなくなります。こういう病気だからこうだ、と言い切ってしまうのなら、誰のための、何のための医療なのかわからなくなる。
 先にも触れたスミスのテキストで、第5版(1997)になって初めて「笑ったり、家族との相互作用をもったりする18トリソミーの年長者がいることを知ることは重要である」と記されるようになったというのは、象徴的なできごとでしょう。本邦の医学雑誌でも1歳を過ぎてあやし笑いをする例や在宅に移行できている例などを示した報告が出ていました(2001年4月)(*5)。 
 一人ひとりの違いに目を向けずに、「18トリソミーだから」どうこう言うのはナンセンスではないか。そう思うようになりました。決定論的な考え方は、もう、やめにしたいのです。「1歳までに90%が死亡する」ということと「10%が1歳をこえて生きる」というのは内容としては同じですが、受ける印象はまるで違います。前者ではどうしたってガックリさせられますが、後者では何だかガンバレと言いたくなる。医療の存在理由ってのは、人の力を削ぐところにあるんじゃなく、人の力になろうとするところにあるんじゃないのか。「臨床」とは「ベッドのそば」という意味ですが、患者さんのそばにいてこそ治療が可能であり、一人ひとりの違いを知って望ましい選択をしていくような過程が、臨床医には必要だと思います。
   
[4] 小児医療の「忘れられた子どもたち」
    
18トリソミーに対する医学的評価をこうしてふりかえってみてみますと、18トリソミーを持ったお子さんたちは、これまでの小児医療の中で光を当てられることがあまりなかった、いわば「忘れられた子どもたち」だったような気がします。
 染色体異常では、21トリソミー(ダウン症)が最も多く(600〜800人に1人)、18トリソミーはそれに次ぐ頻度です(5000〜7000人に1人)。もともとの病気の重さが違いますが、病気と向かい合う姿勢については両者の間には今の時点でかなりの開きがあります。
 ダウン症は今ではハンディの一つとして考えられています。なるほど、以前には「ダウン症は予後不良であるから手術はすべきでない」という考えがありました。しかしそのような言説はもはや過去のものです。現在では、 ダウン症児が「心臓の病気」や「消化器の病気」をもっていても、それは「染色体異常」とは別にして、治療対象に考えられます。
 それと同様に、18トリソミーも、ハンディの一つとして考えることはできないでしょうか。もともとの病気の重さが違うと言われればその通りです。成長や発達の遅れに加え、心臓の合併症が多く、難しいケースが多い。いくつもの報告で、新生児期に亡くなることが多く1歳を迎えることができるのは約10%にすぎないというデータが出されています。厳しい状況を背負わされたことは間違いないでしょう。その厳しい状況で積極的な治療をすすめていくことによってかえって児に痛みを与え、児に負担をかけただけであった、なおかつ御両親との人間的な触れ合いを行えないままに亡くなられた、そういったケースは過去にあったでしょう。この場合は積極的治療がむしろ危害となり、医療における「無害の原則」に反したということになります。しかし一方で、治療を受けることで、QOL(quality of life = 生命、生活、人生の質)を高めることができたケースもあったのではないかと思われます。
 一般的に言って、18トリソミーの発達の度合いは21トリソミーには及ばない。1年以上の比較的良い生命予後をもった児でも、成長しても、お座りできるようにならないかもしれません。言葉が話せるようにはならないかもしれません。しかし、標準的な発達イコール生きる価値なのではないはずです。テストの点数が人間の価値でないように。人が生きていく中身には、数量化することによってはどうしても測れない、よほど大事なことがある。生活の中でそう実感されることはあるんじゃないでしょうか。
   
[5] 生活の中身という重要性
   
 医学の情報は一般的事実を述べることが肝要であり、一人ひとりの生活の様子などに立ち入ることはしません。そのため、その病気をもったお子さんがどんな生き方をしたかとか、どんな生活をしているかとか、といったことはどうしても見えてきません。「一般・抽象」対「個別・具体」の相容れないところで、やむを得ないところがあります。ただし、生まれるということ、生きてゆくということは各個人にとって唯一のものであり、それ自体がもつ重要性に、医療従事者は一歩引き下がる謙虚さを持たなければならないでしょう。
 一人ひとりにとって実際に大事なのは、意外に(と言うよりも、やっぱり)生活に根ざしたコマゴマしたことや、個人的な思い入れだったりするわけですよね。以前には親御さんたちも孤立し、情報交換など考えられなかったでしょう。しかし現在はネットで情報が公開され、まれな病気であっても、その日常の情報が身近に手に入れることが可能な時代です。これまで医療従事者が発信することのできなかったタイプの情報です。そこには、生活の中にある当たり前の悲喜コモゴモがある。医学書にある数行の悲観的予後ではとうてい語り尽くせない、生きている人間の言葉があるわけです。
 学んで知る知識よりも、生きて得る知恵の方が大切だとするなら、無味乾燥な数行の医学的知識より、感情を宿した一つの体験の方が勝る。生きる勇気などというものは、おそらくは初めは思い入れの小さな種にすぎなかったが、体験という地に根を張って、大きく育つものなのだろう。それは誰にとってというものではない。万人にとってです。人がもっている顔の下には、必ずなにがしかの切なる体験がある。医療が人と人との間で行われるものであり、新生児医療が新しい命を迎える場の医療である以上、まず生きる中身をつちかおうとするところが出発点になるはずである。
   
[6] おわりに
 18トリソミーの予後は、昔の教科書に書かれていたような「絶対的に不良」と言い切って終ってよいものではないことをはじめに述べました。次に治療方針の決定について、小児医療の中でも再検討が行われている例をお話しし、最後に一般的事実と個別的体験との違いについて述べました。
 ですから、これまでの治療方針決定における問題とは、一般化された医学的事実を、個別的な事例や思いに押し付けてしまったところにあった。この世に生まれ出たことを祝福される。人としての出発点です。体に不都合があればそれを改善しようとする。医療の原点です。その出発点から次の一歩をどう踏み出すか。人の顔をした医療のために、臨床の現場の一つ一つの取り組みを重ねていくことが必要なのだと思っています。
   
<注>
*1) Jones KL. "Trisomy 18 Syndrome". Smith's Recognizable Patterns of Human Malformation 4th Edition. Philadelphia, WB Saunders, 1988,16−19

*2) Baty BJ, et al. Natural history of trisomy 18 and trisomy 13: II. Psychomotor development. Am J Med Genet 1994;49:189-194

*3) Jones KL. "Trisomy 18 Syndrome". Smith's Recognizable Patterns of Human Malformation 5th Edition. Philadelphia, WB Saunders, 1997,14−17

*4) 「日本小児科医電子メールカンファレンス」で2001年2月に交わされた議論。「18トリソミーの蘇生」

*5) 木村順子ほか.当院で経験した18トリソミー50例の臨床像−長期生存例を中心に−.日本新生児学会雑誌 2001;37:18-23